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土門の眼 〜信濃でうつうつと〜

友達のフェイスブックで松本市立美術館で土門拳の写真展「土門拳の昭和」(〜9/4)が行われていることを知りました。長野に来ていたので少し足を延ばして行ってみました。松本は去年の同じ時期に訪れて以来なので一年ぶりでした。
写真展は初期の対外用に日本を撮影した作品から戦後を逞しく生きる子どもたちを撮ったスナップ、文楽、「古寺巡礼」シリーズと彼の生涯を辿っていきます。

報道写真の鬼、スナップの名手と言われた土門の、人間を見つめる鋭いまなざし、本質をえぐり出すような力強さがどの作品からも伝わってきます。その迫力は見るものの襟を正さてしまうような緊張感さえ与えます。とりわけ室生寺のシリーズには心を奪われました。その最たるものは彌勒堂の釈迦如来座像。自分の背丈より大きく引き延ばされたモノクロの画面いっぱいに如来像の足裏が写っていました。木目の一本一本までが人間の皺のように刻まれているのが見て取れます。本来なら命が宿るはずのないものに色気を感じ、作品を前にしばらく動くことができませんでした。足にまとわりつく裳裾がまたいやに艶かしい。

「写真は肉眼を越える」という言葉を土門は残しています。実物以上の実物を見せつけた彼の作品を前に、自分が室生寺でこの釈迦如来を前にして、今以上の感情が沸き上がるのかと不安にさえ駆られました。写真が写し取るのは目の前にある事実でしかないのに、それ以上のものを訴えかけてくることがあります。それが「写真」のすごさです。

土門が終戦から12年経って初めて広島に降り立ち、被爆に苦しむ人々を克明に記録した「ヒロシマ」シリーズがありました。その時に寄せた文に、「ヒロシマを忘れていたというより、実は何も知らなかったのだ」と書いています。年月が流れても苦しみは消える訳ではなく、むしろ当時より被爆者の心と体に痛ましい傷となって爪痕を残します。彼はその現実を自分の目で見てようやく現実を知りました。そして狼狽します。以後、写真を通してその現実に対峙していこうとするのでした。

今回の写真展のタイトルには、「今、平和への祈りを込めて」という副題がついていました。震災があったから今だからこそ、この言葉が心に迫ってきます。とはいえ、5ヶ月経った今もまだ事実にちゃんと向き合えていない自分がいるのも確かでした。
| つれづれ旅ばなし/日本編 | 10:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
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